祖父の記録(第2次世界大戦頃のヨーロッパ)

祖父の記録ー第2次世界大戦頃のヨーロッパー写真14 (1943年)

今日は7月14日、いわゆるパリ祭の日。
今年2018年は土曜なので、祝日感が少ない。
朝早くから目が覚め、Tabbieと散歩にルーブル近くに行った。
シャンゼリゼからコンコルドまで行進があるので、すでに道路は封鎖してあるし警備も厳重。
もちろんTabbieは気にしないが・・・。
どんどん気温が上がり、猛烈に暑い日。

さて、祖父の写真シリーズの最後。
今頃、祖父がドイツで買ったカメラの名前間違えてたことに気がついて、修正した。
祖父が1938年にベルリンに到着し、真っ先に買ったカメラは「コンタックス」(ツァイス・イコン)。
1936年に発売されたContax II。
本来はもっと早く日本に戻るはずだったのだが、戦争が始まったため戻れなくなった。


昭和17年(1942年)の写真は一枚も無い。
戦争の影響が強く、届けることができなかったんだろう。


だが、昭和18年(1943年)の写真があり、これが最後に日本に届いたものらしい。

この年はヨーロッパの戦況が悪化し、イタリアが敗戦に敗戦を続け(っていうか、イタリアってこの戦い全く勝ってないような;)、この夏にはムッソリーニは失脚し投獄されている。
秋にはヒトラーはムッソリーニを救出している。

また、ベルリンへの空襲も次第にひどくなってきていた。
資料によると、この年の7月にはハンブルグに大空襲があり、ほぼ一夜にして壊滅状態。
そして、11月22日、23日にはベルリン大空襲。
日本軍が使用していた施設も廃墟と化した。
そういう年。
ちなみに翌年1月には日本大使館も空襲で被害を受け、その後は連日連夜の空爆で安眠にも困るようになっている。




1943berlin1943年7月、事務所での写真。
一緒に写っているのは宮崎君、とある。




1943germany1943年10月。
「ベルリンの爆集をさけてポツダム近郊に疎開された大谷少将の小邸を訪問した節の記念撮影」、の写真。
一番右から祖父、タイピストのフンガー、大谷少将、中村主計中佐、運転手バウムガルテン。

これが日本に無事着いて、祖父の元に残った最後の写真となる。

さて、戦争当時祖父はドイツに行っていたがために、日本とは違った状況の中で暮らすこととなった。
戦争のせいで帰ってくることもできなかった。
それでも無事に生還できたのは非常に幸運だったと思う。

祖父の記録ー第2次世界大戦頃のヨーロッパー写真13 (1941年)

昨日の夜は、皆サッカーで大騒ぎ。
ニュース見なくてもフランスが勝ったことがわかる。
タビィとの散歩は、試合中にそそくさと済ませた。
でないと終わった途端、町に繰り出す人たちですごい状態になるからだ。
TVのニュースで見ても、ほとんど優勝したかのような騒ぎ。
でも、フランスのサッカーチーム、しばらく成績良くなかったから、うれしいだろう。



祖父の写真。
年が明けて昭和16年(1941年)。
真珠湾攻撃がこの年の12月なので、まだ日本としては戦争前。


1941berlin1941年3月26日、松岡洋右(まつおかようすけ)外相がベルリンに到着。
ヒトラーと会見。



1941berlin2外交なんてものは、今も昔も友好ムードできらびやかなものだ。
これは総統官邸なのかな?それとも違う省庁の建物か。


1941potsdam1941年5月19日にポツダム。
この日は月曜日だが、キリスト教の祝祭日、聖霊降臨祭が日曜日で、その翌日の月曜日はフランスもドイツも含め多くのヨーロッパの国の祝日になっているので、その日だったと思われる。
休みでドライブに行ったんだろう。
後方の風車は今も残る、サンスーシ西側にある歴史的な逸話を持つ風車。
当時ももちろん有名だったようで、そう記されている。



1941germany1941年5月25日、この日は日曜日なので、下宿先のKimmich氏とドライブで行ったのだろう。
「ウェルダ」にて。この辺りは桜の名所として有名、とあるが、どこなのか分からない。
当時、ベルリン周辺ではどこに桜があったのだろうか。
後ろに写っているのはKimmich氏だと思われる。

---Werderのことだと判明。今でも風光明媚で花祭りがあるそうだ。
当時はここが桜の名所でもあったようで、日本人が訪れたらしい。




1941germany2次の写真は、1941年5月12日。ハノーバーにて某工場の祝宴、とある。
某工場とは何かは不明だが、燃料関係かも。
ハノーバーは鉄道や道路の要所であり、また石油工場もあったようで、大戦の時大空襲を受けている。
きっとこの建物ももう無いんだろう。




1941germany3この写真は1941年5月8日。南ドイツ。
当時のドイツの航空機会社「ドルニエ」の工場を見学した後、ボーデン湖にて、とある。

この湖はドイツ、オーストリア、スイス国境にある。
今も昔も非常に美しい景観の湖。
ここは戦火にあってないはず。



1941年8月末、ハイデルベルクを訪れている。
花岡、木下両君と、と記してあるので、3人で行った旅。
この2人はたぶん化学系で燃料関連の研究をしていた人たちで、2人とも生き残った。
1941germany4これは8月24日、ハイデルベルク城のからネッカーの流れを見下ろして、と記してある。
一緒に行ったどちらかのカメラで撮ってもらったんだろう。
祖父はカメラを持ったまま。
ここは今でも絶景の地らしい。

祖父はアルバムに次のように記している。
"Ich habe mein Herz in Heidelberg verloren"
Google直訳すると「I lost my heart in Heidelberg」
私はハイデルベルク で恋に落ちた、かな。

・・・これ、ゲーテの話題だろうか?
それとも、ドイツのサイレント映画で同タイトル(1929年)のものがあるから、誰かそれが好きだったんだろうか?
はたまた、戯曲のAlt-Heidelberg(アルト・ハイデルベルク)のセリフかなんかなんだろうか?




1941germany5これもハイデルベルク。
この町は戦火にほとんど巻き込まれず、今も美しい街並みが残っている。



1941germany6これはハイデルベルクを訪れた翌日8月25日、シュトゥットガルト。
一緒に写っているのは、一緒に旅行した「木下君」とある。
乗っている乗り物はなんだろう?

祖父の記録ー第2次世界大戦頃のヨーロッパー写真12 (1940年)

昨日の夜は少し涼しくて、よく眠れた。
これはみんな同じで、ほとんどそれがあいさつ(笑)
Tabbieも朝の散歩では元気いっぱい。



1940年の7月7日のちょうど七夕の日。
この年のこの日は日曜日なので、Kimmich氏とドライブでポツダムを訪れたんだろうと思われる。
何度も行っているので、その度に写真は撮ったのだろうが、日本に着いて残っているのは本当にわずか。

ヨーロッパでは39年に戦争が始まっているわけだが、この頃はドイツは他国に攻め込んで勝っている状態で、国内は落ち着いていたんだろう。
ちなみに日独伊三国同盟が結ばれたのは、この年の9月。



1940potsdamまずはサンスーシ宮殿。ここは私も2度訪れたことがある。
宮殿から階段を降りて池が作ってあるところの彫像から、宮殿を背にして写したもの。
現在の比ではないが、当時でもさすがに訪れている人が多い。

ここから下の写真は同じ時に訪れていて、ポツダムのどこかのはずだが、どこか分からない。
1940potsdam2



1940potsdam3この建物が一体どこの何なのか。サンスーシではない。
壁にナチスドイツの鍵マークの旗が飾られてあるのがわかる。



1940potsdam4_2



1940potsdam5この写真の植物、もっと温暖な気候のところのものに思えるのだが。
温室かなんかだろうか?



さて、この後はブランデンブルグとある写真。
時期は同じ1940年の7月だけど、ネクタイが上のポツダムの時と違うので違う時。
1940germany2写っている建物(塔)がどこかわからない。
塔の上に十字架があるので、教会の塔だとは思うが。
カメラを持って写っているから、誰か持っている人と一緒に行ったはず。

これが祖父のコンタックスで、アメリカで没収されたものかと思うと、本当人生明日はどうなるかわからない。



この1940年はクリスマスの時の写真が残っている。
ヨーロッパのクリスマスは、家族や親族と集うもの。
なので、下宿先のKimmich氏の家族親族のクリスマスに混ぜてもらっている。

1940berlin5後ろにクリスマスツリーがあるのがわかる。
祖父の隣にいるのが多分KImmich氏だろうか?
奥さんがどの人になるのかよくわからない。

この写真には写っていないが、祖父からのハガキには「こちらではクリスマスには鯉を食べる」と記されていた。



1940berlin6このテーブルの、クリスマス用の花瓶の植物が非常にいい感じ。
綺麗に白で飾り付けてあったんだろう。

しかし、仕事でも休日でも、山スキーでもクリスマスでも、男性陣はスーツにネクタイなのね。


おまけ。当時のテニスの格好はこんな感じ↓
1940berlin9さすがにテニスの最中にはネクタイしない。7月。

祖父の記録ー第2次世界大戦頃のヨーロッパー写真11 (1940年)

アップルウォッチのおかげで、暑いと心拍数が上がりやすいのが良くわかる。
特に寝不足になった次の日は疲れると感じるが、心拍数もやや高めになることが多い。
暑い中、写真の整理。



祖父の写真。
1940berlin昭和15年(1940年)の3月。この写真は博物館前の広場と記されている。
獅子狩人の像が映っているので、ベルリンの旧博物館前で撮ったんだろう。
左手後ろに見えるのは、ベルリン大聖堂だろう。
こちらは一部損傷したもののいまでも残っている。
とすると、右の後ろに写っているのはベルリン王宮だろうか?
当時は博物館として使用されていて、戦争で焼けてしまった。


1940berlin2これは違う場所からベルリン大聖堂をバックにして。
祖父はこの大聖堂を「ドーム」と書いている。
写っているギリシャ風の柱は旧博物館のもの?
3月のベルリンは雪が残っている。


1940berlin31940年3月17日。祖父はすき焼きを食べに行っている。
場所は東洋館。
1人で行くわけはないから同僚の日本人と行ったのだろうが、誰と一緒に行ったかは書き残していない。
祖父は箸の持ち方がおかしくて、祖母は「(祖父が)ドイツに行って箸の持ち方を忘れた」とよく言っていたが、この頃すでにおかしいのがわかる。
上からかぶせて掴んでクルリと回して口に持って来るという、かなり不思議な持ち方だった。
私が子供の頃は、日本料理屋では「箸くらいちゃんと持て」と客に怒鳴るような店もあったが、ぐっと年配の祖父(←明治生まれ)に向かっては何も言わなかった、というのを覚えている。

こちらのサイトによると、当時ベルリンに日本料理屋は3軒あり、そのうちの1軒。
この「日瑞関係のページ」(→HPトップ)は、第2次世界大戦頃のスイスを始めとしたヨーロッパの史料、文献、それに関する論説がたくさんまとめられている、非常に素晴らしいサイト。



1940berlin4事務所前で撮った写真。
けっこう立派な建物だったのではないかと思われる。



1940berlin8これはティアガルテン、ベルリンの広大な公園。
ワーグナーの像とあるが、正確にはワーグナーの像の足元の彫刻の一つが写っている。
オペラを含め、クラシック音楽が大好きだった祖父には、手元に残った記念の一枚だろう。

祖父の記録ー第2次世界大戦頃のヨーロッパー写真10 (1940年)

パリは毎日かんかん照り。
暑くて散歩だけで疲れるので、夏のバーゲンに行きそびれている。
Tabbieも外に出なくても暑さでタレタレ。




まだまだ続く祖父の写真。
1940germany昭和15年(1940年)2月9日。南独、レーゲンスブルグにメッサーシュミット工場を見学に行っている。
その時の記念撮影。

・・・なんだろうけれど、映画のマフィアの集団みたいに見えて仕方ない^^;。
特に右端のドイツ人だろう人は、そのまま映画に出したい感じ。
この当時ははこれが普通、みんなこういう格好でこういう帽子だったのだなと、改めて思った。
ここに写っている人が誰なのかについては記載がない。



1940germany1当時のドイツは非常に協力的に技術を見せていたそう。
少ししか写ってないけれど、これが有名なメッサーシュミットBf109なんだろうか?



1940munichその後2月11日にはミュンヘンに。
この後ろに立つ建物はどこなのか不明。
唯一読める単語の「DEVISCHEN」というのが何かもわからない。
 →暑い中考えてたが、もしかしたら「DEUTSCHEN」かな?そうするとその後の単語はMUSEU(M)で、なんたらドイツ博物館。。。
・・・やっと寝る前になって発見。
"Bibliothek des Deutschen Museums"
これだろう。
ドイツのWikipedia見る限り、同じ建物(→コチラ)。
ドイツ語しかないので、よくはわからないが。
ドイツ博物館の中の建物の一つ。
車関連の展示でもやってたんだろうか?
そうか、他のところでは写真が撮れなかったのか。
1人で行ったわけではないので、見学コースに入っていたんだろう。

ミュンヘンも空襲でかなり破壊されたので、残っていないのかもしれない。
→・・・というわけで、残っていた。


写真を撮った時は、まさかここまで戦争がひどくなるとは思っておらず、また日本が参戦するとも思っていなかったのは間違いない。
この頃はドイツにも慣れ、ドイツの最新技術も学び、友達も増えて楽しかったんだろうと思われる。
祖父はエンジンの研究をしていたわけで、より良いものを作りたかっただけ。
これはドイツの多くの研究者も同じ。

祖父の記録ー第2次世界大戦頃のヨーロッパー写真9 (1939年)

金曜日、4時頃になると職場から人が消え、皆周りのカフェなどでサッカー観戦。
歓声が聞こえたので勝ったとすぐわかったが、本当に盛り上がりムードだった。



祖父の写真。
昭和14年(1939年)2月にはイタリアに見学旅行で、トリノ、ミラノ、ベニス、フロレンス(フィレンツェ)、ローマを訪れたとあるが、残っている写真はフィレンツェの丘の上からの写真のみ。
1939florenceフィレンツェ の丘の上。
ミケランジェロ広場から撮ったのか?それともその上の教会から撮ったのか?



5月はずっとベルリンにいたのか、事務所や下宿などの写真がたくさん。
その中の2枚。
1939berlin3
近くに週末にでもドライブに連れて行ってもらったのか?
ちなみに祖父は運転はしていなくて、連れて行ってもらったはず。
戦前の車なんて今では貴重だと思うが、どんなのに乗っていたかとっても興味があった。
でも、ほとんど車は写ってなくて、これくらい。
しっかり映っているものは検問でもあってダメだったのかもしれないが。
これでは何の車かよく分からない。
まるまるしてないからフォルクスワーゲン以外の何か。

5月でも地面に雪があるのがわかる。


1939berlin前の写真のように5月でも雪が地面に残っていたから、祖父は冬コートを着た服装。
だが、後ろに映る子供達は半袖で初夏のよう。
当時もドイツ人は寒さに強いと日本人の間で言っていたんだろうな。




次の写真は7月。

1939berlin4勝利の女神が頂上に立つ塔がバックにある。
これは今でも残る戦勝記念塔。

この年は下宿していたKimmichi家族と撮った写真や、クリスマスの夕べという写真があったことがアルバムの跡からわかるが、写真は無くなっているので誰かにやったものと思われる。
残念。


祖父の記録ー第2次世界大戦頃のヨーロッパー写真8 (1939年)

真夏天気が続くパリ。
ちっとも雨が降らないので、建物が全体に暑くなってきて、外の方が気持ちいいくらい。



昭和14年(1939年)1月、スイスのサンモリッツにスキー。
みんな冬は休暇でスキーに行く。
これは「日光浴」が一番の目的。
ヨーロッパの北の方は、冬は日照時間が少ないだけでなく毎日どんよりしていて太陽を見ない。
これはパリでも同じで、冬はとにかく重くどんよりしている。
スキー場となる山ではこれがピカッと晴天が多いのだ。
祖父も「冬季伯林ではほとんど見えない紺碧の空ー太陽ー白銀の山々」と記している。

そういうわけで、冬の山の写真が結構ある。
1939swiss3スキーをする人々。



Swiss白銀の山々。
当時の腰掛けは木なのね・・・。



この後、サンモリッツからアローザに。
1939swiss1この写真では、スキーをやっている人が後ろの方に見られる。



1939swiss2こういうロッジに滞在したんだろう。




この後、5月30〜6月3日までまた瑞西(スイス)の旅。
これまた背景が白銀の山々。
スイスはどこも山の写真しかない。
ただし、それでも町で働いている時と同じく、バッチリネクタイを締めてスーツを着ているのがこの時代の服装らしい。
残念ながら滑っている姿がなくて、スキーをしたのかどうかは分からない。
日本ではこういう雪山で休暇という習慣なかったのか、非常に美しい山々が気に入ったのか、たくさんの写真が残っている。

1939swiss4


1939swiss5


1939swiss6

祖父の記録ー第2次世界大戦頃のヨーロッパー写真7 (1938年)

今日は我が家のTabbie(タビィ)の5歳の誕生日。
もう5年か・・・あっという間。ニンゲンでいうと30半ばになるらしい。
ひどく蒸し暑いので散歩もそこそこ。



1938年10月、祖父はミュンヘンで十月祭(オクトーバーフェスト)を見た後、夜行でウィーンに行っている。

泊まったのはグランド・ホテル。
祖父の書き記している言葉をそのまま書くと:

-
「ゲルツ」工場を見学後、市中を見物。
「ドナウ」河ー「ウィナーシュニッツェル」(カツレツ)ー「ワルツ」ー音楽の遺跡ー「オペラ」が「ウィン」の思い出である。
ここの「オペラ」で聞いた「モーツァルト」の「魔笛」は、その後伯林で聞いたどの「モーツァルト」物より深い感銘を与へた。
-
どんな魔笛だったのか。
よかったんだろうなあ。
1938wien0こういうところは今も全く同じではないかと思うが、どうだろう?
これはウィーンのホーフブルク宮殿だと教えてもらった。



1938wien工場見学の時の写真か?
右端に写っている日本人は大倉商事、杉田氏とある。
当時は写真を撮るのも焦点を合わせたりと時間がかかったものだし、誰でもいつでも撮っていたわけではないので、皆カメラをじっと見つめていることが多い。
だけれど、左端の男性は全然違う方を見ていて、ある意味不思議。
胸元にポケットハンカチが覗いていたり、襟にバッジを付けていたりと、オーストリア側は服装バッチリ。

祖父の記録ー第2次世界大戦頃のヨーロッパー写真6 (1938年)

どう何をしても暑い。
誰に会ってもあいさつは「暑い」。
日本に非常に久しぶりに6月初めに行った時、麻混の靴下をいっぱい買った。
ほぼいつも冬にしか行かないので、ものすごく新鮮。
買って正解だった。
UV対策のしてある夏用の乾きやすいスポーツウエアも買えばよかったとちょっと後悔。
散歩にぴったりだったのに。



1938berlin1938年7月24日、祖父はオリンピック会場を訪れる。
1936年にヒトラーによるドイツオリンピックが開催されていた。

オリンピックのメインスタジアムだったところ。
流石に広い。
特に人がいないと余計広々。
訪れるってここを延々と歩いたんだろうか?



1938berlin3屋外スタジアムなんだけど、座席は木だったんだと妙なところに感心した。



1938berlin1スタジアム周辺の写真のはずだが、どこかは私には分からない。



1938berlin2こちらもどこかは私には分からない。
戦争前は平和だったんだなと思う。
ところで祖父の背後にいる男性、実はしっかりカメラ目線。ポーズまでキメている。




1938berlin4同じ日に、テンペルホーフ飛行場も訪れている。
この当時は軍事用というわけではなかったから、背後の飛行機は一般のプロペラ機だろう。
周りに人がいっぱいいるのは、出迎えの人々?


祖父の記録ー第2次世界大戦頃のヨーロッパー写真5 (1938年)

ひたすら暑い。
でも、まわりからサッカー観戦としか思えない歓声がいっぱい上がっており、フランスは勝ったんだなとニュースを見なくても良くわかった。
ジダン以来、ちょっと停滞気味だったようなので嬉しいだろう。



1938年6月13日に祖父はドイツのベルリンに到着し、「下宿」先に落ち着いた。
ちなみに祖父は外交官待遇で、政府が斡旋した家に住んだ。
食事や身の回りの世話もしてもらった、らしい。
これを当時は皆「下宿」と言った。
どの程度してもらったのかは聞いていないので不明。

祖父が住んだのは、ベルリンのFasanenstraße 54。
戦争の空襲で焼けたので元の建物は残っていない。
ここの家族はKimmichと言い、年が近いことと家族構成が似ている(同じくらいの年の娘が1人)ことから、非常に仲良くなった。
ここの主人にはしょっちゅうドライブに連れて行ってもらったという。
また、その頃が彼らにとっても一番いい時代だった言っていたと、その娘のブリゲッタが親の思い出として語っていた。

そのドライブ先の写真。
これも買ったコンタックスの試写とある。ホントに着いてすぐ買ったらしい。
ちなみにこれ以降、すべての写真はこのカメラ、(レンズはゾナー1.5のコンタックス Contax II)。

Germany一緒に写っているのが、そのKimmich氏。
これがどこだかはわからない。
ドライブではよくサンスーシーに行っていたというので、その途中の家だろうか?

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