祖父の記録

祖父の記録ー第2次世界大戦頃の日本とドイツー写真2

ここ数日暑いパリ。
もふもふタビィは散歩に出たがるくせに、すぐばてて、道に身体を投げ出し行き倒れ犬モード^^;。
月曜日は祝日な上、ものすごい雷雨もあったので、ゆっくり写真(のスキャン)などを見ていた。
というわけで、祖父の残した戦前の旅行の写真の続きを。

これもまだドイツに着く前、船が帰港したところの写真。
日付は昭和で、昭和13年=1938年6月頃。
もちろんまだ戦争は始まっていない平和な頃。

Sohu2昭和13年(1938年)でも、今(2014年)と変わらないエジプトはカイロのスフィンクスとピラミッド。
私はエジプトは1度訪れた(カイロも行った)。
今は治安が悪化しているようだが、その頃はたくさん観光客がいて、遺跡だけ撮るなんて不可能だった。
この頃はほとんどいなかったようだ。



Sohu3これはイタリアのポンペイ。
ナポリに寄港したので行ったようだ。
私はナポリは行ったことがあるけれど、ポンペイは行かずじまいで後悔している。
たぶんこの遺跡具合は変わらないけど、人の数や服装は全然違うのではなかろうか?



Sohu4フランスのパリ。
町並みは保存されているので変わらない。
ただ、街路樹が今はもっと育っている。
道を走っている車はだいぶん違う。



Sohu5これが凱旋門の上。
ちなみに今はこの前に(転落防止のための)フェンスがしっかりある。



Sohu6さて、こちらはエッフェル塔の上。
今と違って観光客がいない・・・それに、床が木材のような?
今は板張りではないし、フェンスも違う。



Sohu7これが上からの風景。
保存されているあたりは変わらないが、今では遠くに新建築の高層ビル(ラ・デファンス)が見えるはず。



驚いたこと。
当時は旅の間でも、いつも背広を着てネクタイも着けていた。
他の写真で同じ船に乗っていた人と一緒に写ってもいるが、どこでも皆ネクタイ着用の背広姿。
しかも、凱旋門もエッフェル塔も登るのは階段しか無かったはず。
(今でも凱旋門は身障者など以外は階段)
(エッフェル塔は当時最新のエレベーター付きで建てられたので、たぶんそれで上がった)
それでもネクタイと背広。
唯一、イエメンのアデンを除いては。

観光客の数が全然違ったのは当然だろうが、どこも少ない。
ノートルダムの前の写真も残っているが、道行く人がいるだけ。
ヴェルサイユ宮殿も訪れているが、そちらも人影が見えない。
さすがにルーブル美術館の前だけは人がけっこういるが、今とは比べ物にならない。
当時は、美術館に並んで入るなんてことは無かったのかも。

祖父の記録ー第2次世界大戦頃の日本とドイツー写真1

祖父の渡独は他の人たちと一緒に船でだった。
まっすぐ行ったわけではなく、途中でいろいろな国に寄って、最終的にベルリンに着く。
ベルリンに着いてから、すぐ給料をはたいて新しいドイツ製のカメラを買ったと祖父の記録にある。
当時は日本と比較にならないほど、ドイツのカメラはよかったそうだ。
だが、日本では関税が高くてとても手に入るような代物ではなかったが、ドイツに着いてしまえば、ぐっと身近な値段になったそうだ。
ただ、カメラも写真もネガもすべてアメリカに拘束されていた時に、取られてしまった。
また、(たぶんこれは公用のものだろうが)当時の動画を撮る機械もドイツで手に入れて、たくさん録ったが、それもすべて没収されたそうだ。

祖父の趣味は写真だったので、非常に悔しかったらしい。
ほとんどが別に戦争に関係ない写真だったので、ゴミとなっているんだろう。

おかげで、残ったのは、当時日本の家族宛に手紙とともに送ったごくごく一部の写真だけ。
祖母は祖父から送られてきた手紙も写真も大切にして疎開させたので、戦火で焼かれずに残った。

その残っている写真。
やはり戦争が始まる前の方が多い(手紙も送りやすかったんだろう)。
また、自分をしっかり写した写真がほとんどで、景色や周りの様子の写真がほとんどないのも、家族に安否を兼ねて送った写真だからだろうか?
それとも、当時は手紙はすべて検察がかかり開けられたそうなので、あまり様子がわかるものは送れなかったか抜かれたのかもしれない。
船はあっちこっちを巡って、エジプトやイタリア、フランスに着いて、それからベルリンに行っている。

Sohuship1当時は家族や親戚、友だちなどがみんなで見送りに行って、記念写真。
女性陣はみな和装で、子どもだけが洋装。
母はまだ赤ん坊(1歳)で、この写真にはいない。



Sohuship盛大に送られる船。
(この写真は誰が撮ったものかはわからないが、たぶん同僚とか友だちだろう)
行く時は戦争になるなんて思っていなかったし、ドイツでいろいろ学んで交流して日本で活用する、はずだった。



写真に残る中で、祖父(の乗った船)が訪れて、私が行ったことがない国のもの。
日付は昭和で、昭和13年=1938年。
Sohu0中国の上海。



Sohu00スリランカのコロンボ。



Sohu1イエメンのアデン。
他の場所では(暑そうな場所でも)上着を着ているが、ここでだけは脱いで写っているので、実に暑かったんだろう。
ただし、どんなところかはさっぱりわからない・・・。

このあたりの写真はドイツに着く前のもので、カメラは祖父が日本で買って使っていたものだが、何を持っていたのかは記録に無い。

祖父の記録ー第2次世界大戦頃の日本とドイツーパスポート

1944年6月6日はDーディ、ノルマンディー上陸作戦が決行された日。
ナチス・ドイツに連合軍が侵攻した。
こちらではいろいろなセレモニーが行われる。
こういうイベントを見るたび、祖父はこのときドイツにいたんだなと思う。
戦争中、どの程度正確な情報が入っていたんだろう。
祖父が生きていた頃はあまり興味が無かったのが残念だ。



Passport0戦前渡独する際に発行された祖父のパスポート。
もうぼろぼろ・・・。

当時のパスポートは、英語とフランス語が表記してあることに気がついた。
表紙も「Passport of Japan」と「Passeport du Japon」が併記してある。
中も印刷部分はどこも英語とフランス語が両方ある。



Passport当時は「大日本帝国」。
ここには載せないが、一番驚いたのは、祖父の名前の漢字が間違っていたことだったりして^^;。
たぶん作った人が気がつかず、もう出来てからだったので、このままでサインしてくれってことだったんだろうか?(と勝手に想像)。
横文字世界に行く分には関係ないわけだし。



Passport1これは英語部分。
「Imperial Japanese Government」
この後名前があって、下に続く。
Passport22公用なので、妨害せず融通を測って通してくれと書いてある。
祖父の場合は公用パスポートだけれど、そうでない場合はどんなだったんだろう?




Passport2同じことがフランス語でもある。
「Gouvernement Imperial du Japon」。



Passport3中はびっしりといろいろな行き来の記録が。
イタリアに行ったり、フランスにも行っていたし。
当時はどうもドイツ内を移動するのでも、きっちり記録されたらしい。



Passport4最後の方の日付として確認できるのは、1944年の3月のもの。
この後は戦争も激しくなり、こういう細かい事務手続きなしで移動したんだろうか。

記録「大戦中在独陸軍関係者の回想」

「大戦中在独陸軍関係者の回想」昭和56年12月 伯林会(ベルリン会)という、第2次世界大戦時にドイツ、もしくはヨーロッパにいた人が書いたものをまとめた本がある。
そこに祖父も寄稿している。
発行年数を見るとわかるように、戦後だいぶん経ってからみな書いているので、淡々とした記録が多い。
(実際、生きていたら寄稿してくれただろうに、すでに亡くなっていた人も多いのも、ちょっと残念)
祖父はこの中で最も若い方に属している。

軍とあるが、当時は日本国家が軍国だったからで、交流目的の外交官もいるし、祖父のように研究交換・情報収集がメインの日本からの派遣がほとんどである。
祖父は航空系だが、建築をやったり、化学をやってたり、医者も病気の研究をやっていたり、という人がけっこう多い。
みな、軍事国家だった政府から派遣されて、当時のドイツの先進技術を見て、いろいろ日本に情報を送っている。
建築系の人が「これが日本のどこそこの元になった橋か」などと感動しているし、他のいろいろな分野の人も祖父も、ドイツの優れた技術に感動している。

技術を秘匿する傾向がヨーロッパでも日本でも強く、戦争になってもならなくても、「相手の情報を収集する」というのは、最も大事なことだ。

そして当時のドイツはこの派遣された日本人にかなり協力的で細部の見学を許可したり、資料を見せてくれていたので、それが当時の日本に送られている。
(これは日独の関係もあったと思うし、また当時の大使がけっこう頑張ったのではないかとも思う)
当時は著作権とか細かく言わなかったので、それを元に日本で作っていても、もとはこれとか書いてないので分かりづらいが、祖父もメッサーシュミットなど多くの工場を訪れ、そこで得た情報を日本に送っている。
戦争が激化すると、資料や機材、滞独していた中で日本ですぐ開発に携わると指名された人をUボートに積んで送ったりしていたが、これは大半が撃沈された、
ただ、一部が日本に着いて何かの製作は成功していたと、祖父は戦争が終わりアメリカ経由で日本に帰ってから知ったと書いてある。
Uボートで送り出し、定期報告がない・・・どうやら沈んだらしい、という悔しい・悲しい事態も多かったのだろう。


ところで、この本を読んでいて非常におもしろいと思ったのは、「石炭液化技術」である。
祖父は専門外だが、寄稿している何人かが真剣に書いていて、当時ものすごく真剣にドイツも日本も開発に臨んでいたらしい。
石油というのは中東から来るので、価格や供給が安定しないため、より安価で日本にもある石炭を精製して純度の高い液化燃料として使おう、という技術である。
第2次世界大戦頃にもうすぐきっとうまくいく、とかなり熱を入れて期待していたにも関わらず、現在でも稼働してない技術、というのがあったのかと驚く。
これは戦後、原子力活用に方向転換したせいだろうか?
これがどれくらい取りやすいのかはわからないが、石油に頼らない(中東に頼らない)という観点からは、魅力を感じる。

祖父の記録ードイツ敗戦後、日本人捕虜がアメリカに送られた船

アメリカの資料に、ドイツ敗戦後に捕虜になった日本人がアメリカに向けて送られた船の乗船リストが保存されているのが見つかった(ancestry.com)。

ドイツ敗戦後、多くの日本人が米軍の捕虜になった。
彼らは皆がドイツにいたわけではなく、ドイツ敗戦近くになってヨーロッパの他の国(フランスなど)から、逃げて合流してきた日本人たちや、他の場所で米軍の捕虜になった人もけっこういたようだ。
米軍に捕虜になった日本人たちは、フランスのノルマンディー地方のル・アーブルから海軍の船でアメリカに送られた。
USS West PointとUSS Santa Rosaの2隻が日本人を運ぶのにも使われている。
ちなみに船の中はほとんどは、アメリカに戻る米軍の兵士たち。

その日本人の乗船リストが下の方に(画像はクリックすると大きくなります)。
*使う場合は一報下さい。線引いたり縮小したのは私なので。
*他にも何か質問などあれば、もちろん遠慮なくどうぞ。


祖父が乗ったのはUSS West Pointの方で1945年6月30日にル・アーブルを出港している。
(7月11日にニューヨーク到着?)
この中で知られた人は:
大島浩: 当時のドイツ大使、日独伊同盟に奔走した人で、親ナチス。A級戦犯で無期懲役判決を受けた。
小島秀雄: 海軍少将?(この記録では大将)、親ドイツだが反ナチス、上の大島とは犬猿の仲だったそう。
大谷修少将(おおたにおさむ):少将、陸軍兵器行政本部ドイツ駐在官
阿久津正藏(あくつしょうぞう):軍用パンの研究(←戦争時の補給のため)
前田陽一(フランス文学者):当時副領事だったらしい。

他、地位は割と高いけれど、ネットではよくわからなかった人。
小松光彦(こまつみつひこ)(中将)
みすみよしさだ(少将)



一方、USS Santa Rosaには、女性や家族もたくさん乗せられている。
この中で知られた人:
近衛秀麿(このえひでまろ): 子爵、指揮者
諏訪根自子(すわねじこ):有名なバイオリニスト
内本実(うちもとみのる): テノール歌手
大島豊子(おおしまとよこ):ドイツ大使だった大島浩の夫人
本野盛一(もとのせいいち)、子爵本野一郎の息子で、当時のヴィシー政権の外交官、家族でいる。

もし他に知られた人がいたら、教えて下さい。



USS West Point
Westpoint




一方、USS Santa Rosa
Santarosa00


Santarosa01


Santarosa02

*使う場合は一報下さい。線引いたり縮小したのは私なので。
*他にも何か質問などあれば、もちろん遠慮なくどうぞ。


祖父の記録ー第2次世界大戦頃の日本とドイツ(捕虜そして帰国)

ドイツとソ連が衝突することになったのは、1941年になってから。
そして、日本が戦争に参加したもの1941年。
日本がアメリカを攻撃したことにより、アメリカも戦争に参加し、これで本格的な「世界大戦」になった。

戦争が無ければ、数年後日本の研究所に帰って来て続けた、はずの予定が、帰ってこられなくなった。
みんな、「どうなるのか?」、「早く終わらないか」と、思っていただろう。
状況が悪化した頃、日本に呼び戻されて潜水艦に乗ってドイツを出たものは、暗号が解読されていたために、皆沈められて死亡した、そうだ。
ドイツの滞在生活に付いては、またわかることを付け足して行きたい。



1945年、ヒトラーが自殺し、それからドイツが降伏。
大島浩や他の外交官、そして、当時ドイツにいた有名なバイオリニストの諏訪根自子も、同じ場所に逃げたらしい。

それでも結局アメリカ軍に捕らえられ、アメリカに送られた。
その時の船が「USS West Point」
この船、もともと客船だが、第2次世界大戦当時は海軍に使われていて、兵隊の輸送などをしていた。
また、何度も名前も変えられていて、大戦当時の名前がUSS West Point。
1945年6月30日、フランス、ノルマンディーのLe Havre(ル・アーブル)から、(戦争終わって引き上げる)たくさん(何千人も)の兵隊と30名くらい(?)の日本の捕虜たちを乗せている。
大島浩や私の祖父の名前も乗船名簿にあるのを、友達が見つけてくれた(ancestry.com) 。
この船は7月11日にアメリカに着いている。

また、諏訪根自子や大島夫人を含めた他の日本人の捕虜が、これから1ヶ月くらい後に「Santa Rosa」という船でアメリカに送られ、8月12日に着いている。

彼らは最終的にペンシルベニア州のBedford Springs Hotelに拘留されていた、らしい。
ここはもともとは山の中のリゾートホテルだが、この時はアメリカ海軍がいろいろな日本人の拘留の場所として使っていて、約200人の日本人が拘留されていた。
フェンスに覆われ、むろんゴルフ施設も捕虜たちには使えなかったし、食事はワシントンD.C.からのものと、注釈がある。
(外側は元ホテルでも中は牢獄仕様・・・)
ここに大島浩や他の外交官、また諏訪根自子もいたとあるので、祖父もいたんだろう。



日本が降伏したのは、昭和20年、1945年8月15日。
曾祖母、祖母や母の家は空襲で焼け、よそに疎開していて、そこで壊れかけたラジオで玉音放送を聞いたという。

戦後、解放されて日本に帰る船が出たのは11月。
大島浩も諏訪根自子も一緒の船だったと、祖父は言っていた。
バイオリニスト、たぶんこの諏訪根自子、が、一緒に帰る日本人たちに、ラロのバイオリン協奏曲を弾いてくれたという話を、祖父はしてくれた。
日本人だけでなく、アメリカ人たちも聴きにきたそう。
日本に着いた日付は不明。
母や祖母が寒い夜行列車に乗って、浦賀港に迎えに行ったのは12月。
すぐにみんな解放されたわけではなく、何週間かはどこかに留め置かれたような感じだったらしい。

これで祖父の長い長い旅は終わる(1938年6月から1945年12月)。
この後、祖父が「海外」に出たのは、戦後しばらくアメリカの占領下だった「沖縄」だけである。


以下、Wikiの英語版から。
Hiroshi Oshima
"all diplomats were to leave Berlin at once by Hitler's direct order. Ōshima had sent his wife to Bad Gastein, a mountain resort in Austria, and the next day left to join her, together with most of the Japanese diplomatic staff.
Less than a month later Germany surrendered and Ōshima and his staff were taken into custody. They were brought to the United States by ship, arriving on 11 July 1945. After interrogation and internment in Bedford Springs Hotel, a resort hotel in the heart of the Allegheny Mountains, Pennsylvania, Ōshima was returned to Japan in November 1945."

Nejiko Suwa
"She joined Japanese Ambassador Ōshima's entourage in the Japanese Embassy in Berlin in April 1945 before moving with them to Bad Gastein when the war in Europe ended in May.[3] She was captured in the Austrian Alps with the entire Japanese diplomatic mission to Germany by the Seventh United States Army in May 1945. She and other Japanese nationals were placed on board the liner Santa Rosa, in Le Havre, France, bound for New York. They were briefly sent to Pennsylvania in August to be detained in the Bedford Springs Hotel in the heart of the Allegheny Mountains before being released in November and sent back to Japan."

祖父の記録ー第2次世界大戦頃の日本とドイツ(日本からドイツに)

現在わかっている祖父の記録。

昭和8年(1933):東京帝国大学機械工学科卒(これは近代デジタルライブラリーの東京帝国大学卒業氏名録で確認できた)
そして、立川陸軍航空技術研究所に。
昭和10年(1935):結婚。立川に住んでいた
昭和12年(1937):私の母が生まれる

その翌年、昭和13年(1938)、ドイツ駐在を命じられ、渡独。
祖父がちょうど30歳の時。
当時の公用パスポートが残っていて、大日本帝国外務大臣外務大臣 広田弘毅 の印が有る。
(diplomatのパスポート)
階級は少佐:従六位。大学出としては普通かな。
4月28日:神戸港出港。
この時は親族や同僚など、たくさんが見送りに行った。
船は瀬戸内海を通り、長崎に寄ってから日本を出た。
祖母は長崎にも見送りに行った。

この後、船の経路は、上海−コロンボ−カイロ−アデン−ナポリ−パリ(6月7日)。
パリからは列車でベルリンのZoo駅着(6月13日)。そして、滞在先(下宿先と言っていた)に落ち着いた。
そこの家族がKimmichという名字。
ドライブとかも連れて行ってくれたりもしたらしい。
このKimmich氏は自動車工場などで働いていた職人だったらしい。

ちなみにこの1938の8月、祖父がドイツに着いた後に、ドイツのヒトラーユーゲントが日本に来ている。
そのため、祖父自身は当時盛り上がったはずの日本の親独ムードは、(話は聞いたにせよ)実際の体感としては、よくわからなかっただろう。

また、1939にドイツが開戦したあたりで、ドイツはソ連と不可侵条約を結んでいる。
これは日本としては非常に不満であり、一時期はドイツに好意的ではなかった。
ドイツびいきの駐ドイツ特命全権大使、大島浩も日本に戻されている。

ドイツがポーランドに侵攻したのは1939年。
ソ連はソ連でフィンランドなどに侵攻している。
1940には、ドイツはフランスなど攻略し、この時までは勝っている状態だった。


ドイツにいた当時、祖父はヨーロッパのいろいろなところに、公用私用で出かけたらしい。
祖父はほとんど当時のことを語らなかったので、母が覚えているのは:
フローレンス(フィレンツェ)はいいところだった。町中が美術館のようだった。
ポツダムは日本の鎌倉みたいな落ち着いたところだった。
(私も両方行ったことはある)

そんなわけで、祖父はその頃あちこち行って、趣味の写真を撮っていた以外のことがわからない。

祖父の記録2

祖父は明治41年、すなわち西暦1908年生まれ。

祖父は第一高等学校ではなく、地元から近い第八高等学校だった。
(近いと言っても、電車-国鉄で通う必要があった)
それから東京帝国大学に行った。
なので、大学に行くために東京に移って住んだ。
私が大人になって祖父が東京に来た時、「(大学の)門は前と一緒や」と言っていたので、昔からあったらしい。

祖父は大学に残って航空力学やエンジンに付いて研究を続けるか、それとも軍に入ってそれらの研究を続けるか、で、たぶん後者を選んだのだと思う(要確認)。
いずれにせよ、ドイツに旅立った時は軍の元でだった。

関係ないけれども、祖父母の結婚は当時としてはかなり遅めだった。
また、祖母の結婚衣装は白地のと黒地のと、全く同じ違う柄物で2着残っている。
白地のは御所車とか絵巻物みたいで、婚礼用らしいもの(妹が結婚式で着た)。
黒地の方は、柄が大きめで小槌とか縁起物が大胆にあしらってあったそう(妹談)。
いずれも美しい柄入りのもので、無地ではない。
(当時は全部手縫い、金糸入りの非常に美しい振り袖)
当時は結婚式の途中で服を変えたりしないので、2回式をした、らしい。
まだ昭和始めの戦争の前、もっとずっと落ち着いていた。
祖母は名古屋の松坂屋などは、玄関(入り口)で履き物を預かってくれて中に入った、と言っていた。
もともと呉服屋なので、そういうものだったのだろう。
父方の祖母の方も、昭和の初めに、(生涯最初で最後の)東京見物で博物館・美術館を訪れたり、日本橋の高島屋に行っている手記が残っている。
(その中で明治屋で買ったパパイヤなるものを食べた、とあるので、戦前はそういうものも東京では売っていたらしい)



母が昭和12年、西暦1937年生まれ。
祖母は赤ん坊だった母を抱いて、ドイツに旅立つ祖父を見送った。
なので出立は1937年か1938年だろう(これはパスポートを見れば確認できる)。
当時は船だったのだが、東京(横浜?)の港を出てから、九州も一旦寄って、それから日本から出ている。
なので、祖母は九州にも行って、再度見送った。
何しろ当時は、電話なんて論外だし、その後は手紙だけのやりとりになる。
戦争がなかったとしても、何年も帰ってこられない、非常に長い別れだ。
祖父の趣味は写真だったので、ドイツに旅立つ前、母が生まれた頃の写真は残っている。



第2次世界大戦は1939年9月1日にドイツがポーランドに侵攻したことに始まる。
日本が日独伊同盟を結んだのは1940年、そして真珠湾攻撃で宣戦布告したのは1941年である。
つまり、ドイツが戦争を始めた時は、日本は同盟国では無かった。
祖父はドイツがいきなり戦争を始めて、びっくりしただろうと思う。

祖父の記録

今年こそ、祖父が第2次世界大戦当時ドイツのベルリンにいたことをまとめようと思う。
箇条書きに私が聞いて知っていること。

資料は実家にある、祖父のパスポート、戦火がない頃祖母宛に届いた手紙、一部の写真。

祖父がドイツに発ったのは、母が生まれて間もない頃。
祖父は一高(旧第一高等学校)八高(第八高等学校)から東京帝国大学(現在の東京大学)の工学部に進んだ。
航空力学・エンジンの勉強のために、ドイツに留学することになった。
(当時は軍国化していたので、当然全部軍の元。パスポートに階級が書いてあったはず)
船で行った。
マカオなどの東南アジアを回り、(同盟を結んでいた)イタリアも巡り、ドイツに着くのに大分かかった。
ベルリンで住んでいたアパートの管理人さん一家(ドイツ人)と仲良くなった。
そのドイツ人の一家は祖父と同じくらいの年齢で、母と同じくらいの年の1人娘(ぶりげった)がいた。
戦火がまだ穏やかな頃は、祖父も一緒に連れて、サンスーシーなどに遊びに行った。
(当時が一番いい頃だったと父(管理人のおじさん)が言っていたと、ぶりげったは言った)

戦争が激化し、一部の人たちは日本に戻るために(軍の)潜水艦に乗ったが、(その頃は)暗号が解読されていたため、全部撃沈された。
もし祖父がそこに乗っていたら、死んでいた。
ベルリンは空爆され、ドイツが降伏し、残っていた日本人たちはスイスに向かって逃げることになった。
ドイツ兵は最後まで統率が取れていて、出来る限りスイスに近づくあたりまで、日本人グループを車で送ってくれた。
結局スイスに入る前にアメリカ軍に捕らえられ、捕虜となった。
(その時に持っていたものはほとんど全部取られて帰ってこなかった)
戦争が激化してからは、連絡もなく、祖母たちは祖父は死んだと思っていた。

日本に戻ったのは7年後(母が7歳)、戦争が終わってから。
祖母や母、当時まだ健在だった曾祖母の家は戦争の空襲で焼けだされた。
しばらく疎開生活をしていた。
ので、アメリカに捕らえられていた祖父は、祖母たちは死んだと思っていた。

お互い「生きとったんか!」というところ。
ただし、現実は映画のように感動的に抱きあったりはしなかった。
外−カイガイに出ていたものは、非常に汚かったと言われていたので、まずとりあえず祖父は家の裏の、井戸の水で身体を洗った(洗わされた)。
(きれいずきの)祖母も母も「そんなもん触るわけあらへんやろ」と言っていた。

ドイツの一家もベルリンが焼き払われ、ドイツは敗戦し、職もなく、フランスに来てしばらく働き、その後アメリカに渡って働いた。
娘(ぶりげった)だけは、そのままアメリカに残った(たぶん国籍はアメリカとドイツ)。
今はフロリダ(?)の海沿いに住んでいる。
その経緯で、彼女はドイツ語・フランス語・英語が話せる。
仕事は秘書をしていた(今はもう働いていない)。
両親夫婦はドイツに戻って(職を得て?)、シュトゥットガルトに戻りそこに最後まで住んだ。

祖父は日本に戻って少し落ち着いた頃、ドイツのベルリン宛に(焼かれているとわかっていても)その管理人一家に手紙を書いた。
当時は、焼け野原になっていたベルリン、そこに届いた手紙は郵便屋さんがあたりの人に「この人の行き先知らないか?」聞いてくれたらしい。
そして、たまたま祖父を覚えていた人がいて、管理人一家の場所を探してくれ、フランスへ移った住所を見つけて、送ってくれたらしい。
とにかく、手紙はフランスに転送され、ドイツ人一家は祖父の手紙を受け取った(これは本当に奇跡)。
(もちろん大喜びで)日本の祖父の住所に返事の手紙が届いた。
しばらくは手紙は何度もやりとりされていたが、孫の私が物心ついた頃には、クリスマスカードをやり取りしていただけだった。
向こうが死ぬまでクリスマスカードはやりとりしていた(祖父は長生きした)。
まだ母が若い頃、向こうの娘ぶりげったも日本に遊びに来て、祖父母たちとも会った。

ぶりげったは旅が好きで、母にもちょくちょくカードを送って来てくれた。
クリスマスカードはずっとやりとりしている。

ぶりげったの方は嫌な思い出なので、ほとんど昔のものは焼くか捨てるかしたので、何も残っていないそうだ。
(母が最近送ったカードくらいは持っていると思うが)

さて、名前や年代などは、これから・・・。

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