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祖父の記録

今年こそ、祖父が第2次世界大戦当時ドイツのベルリンにいたことをまとめようと思う。
箇条書きに私が聞いて知っていること。

資料は実家にある、祖父のパスポート、戦火がない頃祖母宛に届いた手紙、一部の写真。

祖父がドイツに発ったのは、母が生まれて間もない頃。
祖父は一高(旧第一高等学校)八高(第八高等学校)から東京帝国大学(現在の東京大学)の工学部に進んだ。
航空力学・エンジンの勉強のために、ドイツに留学することになった。
(当時は軍国化していたので、当然全部軍の元。パスポートに階級が書いてあったはず)
船で行った。
マカオなどの東南アジアを回り、(同盟を結んでいた)イタリアも巡り、ドイツに着くのに大分かかった。
ベルリンで住んでいたアパートの管理人さん一家(ドイツ人)と仲良くなった。
そのドイツ人の一家は祖父と同じくらいの年齢で、母と同じくらいの年の1人娘(ぶりげった)がいた。
戦火がまだ穏やかな頃は、祖父も一緒に連れて、サンスーシーなどに遊びに行った。
(当時が一番いい頃だったと父(管理人のおじさん)が言っていたと、ぶりげったは言った)

戦争が激化し、一部の人たちは日本に戻るために(軍の)潜水艦に乗ったが、(その頃は)暗号が解読されていたため、全部撃沈された。
もし祖父がそこに乗っていたら、死んでいた。
ベルリンは空爆され、ドイツが降伏し、残っていた日本人たちはスイスに向かって逃げることになった。
ドイツ兵は最後まで統率が取れていて、出来る限りスイスに近づくあたりまで、日本人グループを車で送ってくれた。
結局スイスに入る前にアメリカ軍に捕らえられ、捕虜となった。
(その時に持っていたものはほとんど全部取られて帰ってこなかった)
戦争が激化してからは、連絡もなく、祖母たちは祖父は死んだと思っていた。

日本に戻ったのは7年後(母が7歳)、戦争が終わってから。
祖母や母、当時まだ健在だった曾祖母の家は戦争の空襲で焼けだされた。
しばらく疎開生活をしていた。
ので、アメリカに捕らえられていた祖父は、祖母たちは死んだと思っていた。

お互い「生きとったんか!」というところ。
ただし、現実は映画のように感動的に抱きあったりはしなかった。
外−カイガイに出ていたものは、非常に汚かったと言われていたので、まずとりあえず祖父は家の裏の、井戸の水で身体を洗った(洗わされた)。
(きれいずきの)祖母も母も「そんなもん触るわけあらへんやろ」と言っていた。

ドイツの一家もベルリンが焼き払われ、ドイツは敗戦し、職もなく、フランスに来てしばらく働き、その後アメリカに渡って働いた。
娘(ぶりげった)だけは、そのままアメリカに残った(たぶん国籍はアメリカとドイツ)。
今はフロリダ(?)の海沿いに住んでいる。
その経緯で、彼女はドイツ語・フランス語・英語が話せる。
仕事は秘書をしていた(今はもう働いていない)。
両親夫婦はドイツに戻って(職を得て?)、シュトゥットガルトに戻りそこに最後まで住んだ。

祖父は日本に戻って少し落ち着いた頃、ドイツのベルリン宛に(焼かれているとわかっていても)その管理人一家に手紙を書いた。
当時は、焼け野原になっていたベルリン、そこに届いた手紙は郵便屋さんがあたりの人に「この人の行き先知らないか?」聞いてくれたらしい。
そして、たまたま祖父を覚えていた人がいて、管理人一家の場所を探してくれ、フランスへ移った住所を見つけて、送ってくれたらしい。
とにかく、手紙はフランスに転送され、ドイツ人一家は祖父の手紙を受け取った(これは本当に奇跡)。
(もちろん大喜びで)日本の祖父の住所に返事の手紙が届いた。
しばらくは手紙は何度もやりとりされていたが、孫の私が物心ついた頃には、クリスマスカードをやり取りしていただけだった。
向こうが死ぬまでクリスマスカードはやりとりしていた(祖父は長生きした)。
まだ母が若い頃、向こうの娘ぶりげったも日本に遊びに来て、祖父母たちとも会った。

ぶりげったは旅が好きで、母にもちょくちょくカードを送って来てくれた。
クリスマスカードはずっとやりとりしている。

ぶりげったの方は嫌な思い出なので、ほとんど昔のものは焼くか捨てるかしたので、何も残っていないそうだ。
(母が最近送ったカードくらいは持っていると思うが)

さて、名前や年代などは、これから・・・。

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祖父の記録」カテゴリの記事

コメント

とても興味深いお話(実話)ですね! 箇条書きにされた行間から映像イメージが湧いてきます。
まとめられた記録をぜひアップして下さいね!

>ありがとうございます。
ぼちぼちと・・・。
わかる範囲で日付なんかもチェックして行こうかと。

ただ、祖父は戦時やその前の体験に付いて、母にもほとんど語らなかった人だったので、わからないところも多いです。
当時、ベルリンにはそれなりに日本人はいたようですが、もう生きてる人はいないかも・・・。

おじいさん、当時のインテリジェンスかつやっぱり命からがら体験者でいらしたのですね。
そっかー、それでドイツにゆかりがあるのね。

手紙が届くなんてすごいね、いろんなヒトの善意が積み重なっていますな。

>あの時代の人は、みんな大変だったでしょう。

よく手紙が届いたなと思います。
これは本当に奇跡で、お互いものすごく驚いたと思います。
当然ながら全部ドイツ語で、うちに残ってる手紙はあるんですが、何が書いてあるかわかりません(笑)
祖父が相手に何を書いたのかも、誰も知りません(笑)

本野盛一氏は1951年のサンフランシスコ講和会議に吉田茂首相の随員の一人として参加され、
帰路、機内に「日の丸」がないため、CAから口紅を借り、白いハンカチに塗って、独立回復を喜んで乾杯したと佐賀県出身のわが師・末次一郎から聞いたことがあります。なにか、関連の情報があればお聞かせください。回顧録などおありでしょうか。

>ありがとうございます。
「本野盛一」の名は確かにドイツ敗戦に伴いアメリカに送られた日本人のうち、ウェストポイントに乗った(乗せられた)リスト中にあります。
が、祖父と交流があったかどうかは全くわかりません。
祖父自身の日記などは全て没収されており、一応アメリカの保存センターみたいなところに問い合わせたんですが、「確かに記録としては残っているが、実物の方は行方が分からない」でした。

ベルリン在住の人の回顧録みたいなのはあるのですが、作成されたのがかなり後になってからで、生前の祖父曰く「死んでしまった人も多いし、だいぶん前の記憶だから」あまりよくない、もっと早く生々しいうちに作った方がよかった、とのことでした。
もう一度見直してみてから、何か見つかればご連絡します。

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